公立高校生の新たな挑戦

どん底からビッグな男へ

【前編】人生最大のスランプと人生最大の努力

 みなさん、お元気ですか?

 

 2020年現在、日本の公立高校に通う高2男子、SEAです!

 

 

 今回は、今まで僕がどんな人生を歩んできたのか、簡単にご説明させていただきます。

 生まれてから今に至るまですべてを話すとなると、ネタ切れになってしまうので、人生最大のスランプと人生最大の努力について語ります!

 

 

 

今回はその前編

人生最大のスランプ

 

 

 僕にとって人生最大のスランプは、中学受験に失敗したことです。

 

「いやいや、待てよと。お前、まだ16年しか生きてねえじゃねぇか!」

 

 そんなふうに思う人もいらっしゃると思います。その通りです!僕はまだまだ経験の浅い若造ですが、少なくともこの16年間の中で最も挫折したことが中学受験失敗でした。

 次から詳しく見ていきましょう!

 

 

 

 

 

 

 まず、「中学受験決意のきっかけ」について話します。

 

 

サッカーと遊びに全力だった小学生時代

 

 僕は公立小学校に通う至って普通の小学生でした。実は小学1年生で父の仕事の都合により、転校を経験しています。しかも小学1年生の夏休みのことです。1つ目の学校にいた期間が短いですよね?笑 せっかく新しい友達ができたのに、離れ離れになってしまった。当時7歳だった僕には到底受け入れられない現実でした。

 

 それはさておき、小学校受験してお勉強していたお坊ちゃまみたいな子供ではなかったということです。ベネッセの通信教育は受けていましたが、小3くらいから課題をためる悪い癖がついてしまったことを覚えています。

 

 小学2年生の終わりの頃、地元のサッカークラブに入部しました。きっかけは学校の休み時間によくサッカーをしていて、サッカーが上手な友達のシュートがかっこよくて、「僕もサッカーが上手くなりたい!」って思ったからです。僕の父は、僕が何か習い事を始める時は、「息子の本気度」をめちゃめちゃ見極めますから、かなり動機は詳しく聞かれました。幼稚生の時からはスイミングスクールに通っていました。それも、スイスイ泳げる友達に憧れたからです。「憧れ」って原動力になりますよね。そして、父は承諾してくれて、週末にはチームの練習に参加しました。もちろん基礎からで、リフティングをやったのですが、その日の最高記録は4回でした。僕は本当にリフティングが苦手でした。初心者の父より下手でした。地元のサッカークラブのメンバーとして毎週土曜日と日曜日の練習、また平日の自主練習や個人的に通ったサッカースクールを通して、サッカーに熱中した小学生時代でもありました。

 

 また、学校が終わると、友達と児童館に行って任天堂のDSでゲームをして遊んだり、公園でドロケイをして遊んだりしていました。ドロケイって懐かしいですね。学校の休み時間でもよく遊びました。バナナ鬼とか、氷鬼とか、めちゃくちゃバリエーションも豊富だったことは鮮明に覚えています笑

 

 

小学4年生での決意

 

 そんなサッカーと遊びに全力だった小学生だった僕に決意の時がやってきます。小学4年生の時、父が僕に中学受験を勧めてきました。どんな経緯で父が僕に勧めてきたのかはまだ聞いたことがないので、わかりません。今度聞いてみます。僕が父であれば、「息子の将来のことを考えると、この時期から勉強すれば夢の選択肢も増えるのではないか。」という思いから、受験を勧めると思います。プロフィールにもありますように、僕は好奇心旺盛でしたから、「やってみよう!」という精神で中学受験を決意したのだと今では思います。そんな訳で、新たな挑戦に向けた受験勉強が始まります。

 

 

Z会で受験勉強を始めるも、、

 

 小学4年生に決意してから、Z会の中学受験講座を受講しました。先程申し上げたように、もともとベネッセで勉強していましたから、それをやめて、Z会で勉強することにしました。なぜZ会かというと、当時、通信教育で「受験」となるとZ会が強いというか、開成、麻布、武蔵といった男子御三家といった難関校に通信教育で入学する子たちはZ会を受講している印象だったからだと思います。ベネッセはどちらかと言うと、補習のための通信教育という感じでしたから。今はどうかわからないので、事実と違うことを言っていたらすみません。

それからZ会で受験勉強を始めたのですが、「算数」で挫折しました。ベネッセを受講していた時から、わからない問題は両親に聞くようにしていましたが、算数の難問は小学生の学習範囲で解くというのは難しく、数強の父は僕に

「方程式を使えば簡単に解が求められる!」

とか言うのですが、

「それは中学範囲じゃん!!」

と反論して次第に算数嫌いになっていた覚えがあります。ていう感じで小学4年生の間は勉強していましたが、さすがに両親が全てを答えられるわけではなかったので、小学5年生で塾に入ることにしました。

 

 

本格的に始めた受験勉強

 

 そういえば、まだ志望校を伝えていませんでした。いつ志望校を決めたのか?それは、小学5年生の時でした。僕の家はとてもじゃないけど裕福ではなかったので、まず、第1志望校に私立という選択肢はありませんでした。その頃、ちょうど公立の中高一貫校が流行りというか、エスカレーターで高校も入れるし、しかも公立だから学費も私立より安いということで人気でした。幸運なことに、家から自転車で10分くらいの所に公立M中等教育学校があったので、そこを受験することにしました。また、その学校の当時の男の校長先生がとても興味深い先生であったり、中学の修学旅行先がオーストラリアだったりしたので、それはモチベーションでした。

 第1志望校が決まり、次に塾決めです。「公立に強い!○○」という言葉がキャッチフレーズの進学塾Eがあり、そこに体験授業に行きました。クラスの子たちがとても個性的で、授業がとても楽しい印象でした。結局、色んな塾を探した結果、進学塾Eに入塾することにしました。小5のGWのことでした。

 進学塾Eでは公立中高一貫校の受験対策が万全でした。作文の対策と、理系分野と文系分野の対策がメインでした。クラスはとても賑やかで、騒がしくしていたことも度々あった記憶があります。先生や真面目な女子がよく騒がしい男子たちを叱ることも。僕も常習犯の1人だったかもしれません笑 それはさておき、そんな雰囲気は小6の夏休みくらいにはなくなり、皆が受験というものをとても意識し始めました。塾の先生は小5の頃から僕たちに、

「テレビは1日1時間まで。時間があったら勉強しろ。」

と、うるさいほど言っていました。僕は最初は守っていましたが、6年生になり、塾の授業の数が増えて(週6とか)、睡眠不足や疲労によって時間に余裕がなくなって、息抜きと思って勉強ではなく、テレビを見たり友達と遊んだりする時間も一方で増えていました。今では本当に反省しています。そんな感じで受験当日を迎えました。

 

 

 

あっという間に訪れた受験

 

 皆さんは「受験のマジックナンバーという言葉を聞いたことはありますか?いやこれが正式な名前かはわかりませんが、受験まで「4ヶ月」だと「まだ受験まで4ヶ月」と思い、「3ヶ月」だと「もう受験まで3ヶ月」と思うことを言います。この時間の過ぎていく体感速度には個人差はあると思いますが、僕はこれが本当だったなと思っています。もう3ヶ月過ぎてからは本当にあっという間でした。

 受験が近づくと、「あれやらなきゃ」「これもやんないと」と焦りから色々と自分の中でタスクが出てきて、それを取捨選択してタスク処理すればいいのですが、当時の僕はそれができませんでした。ですから、何かをやり残した余力があるまま、試験会場へ足を運ぶことになってしまいました。

 

試験当日。

 試験会場に行く前に、朝、受験校の近くの公園で決起集会をしました。コンディションは悪くなかったと思います。むしろ好調というところではないでしょうか。集会で話した先生の言葉がめちゃめちゃやる気を掻き立てた記憶はあります。

 期待と不安を胸に受験校に向かって歩き、校門の前であのとき僕は止まりました。実は、前日に今までの感謝込めた両親への手紙を書いていました。

「…今まで応援ありがとう。頑張ってきます!…」

 

試験開始。

 時間の経過は、あっという間でした。しかも、受けた年の問題傾向が大きく変わったので、焦りがものすごくありました。でも、それはみんなが同じ条件なので言い訳ですよね。正直、手応えはありませんでした。

 

試験後。

 試験が終わると、そのまま進学塾Eに向かいました。答案再現です。その前に、答案再現をする別室で当時の塾の校長が、疲れ果ててぶっ倒れて寝ていました。それを見て、ここまで本当に先生も僕も皆も頑張ってきたなという思いが込み上げると同時に、手応えのなさから自分自身を情けなく思っていました。

 本当に手応えがなかったので、早く書き終わって帰ろうと思いながら書きました。しかし、周りには同じように受験後の塾生がいるわけで、「どうだった?ねぇ、どうだった?」と聞いてくるわけです。2年間勉強してきたわけですから、「いや俺、絶対落ちたわ。」とか言いたくありませんでした。だから、「運が良ければ受かるかな〜」みたいな感じで軽く流したと思います。本当は焦りで頭がいっぱいだっただろうに。

 答案再現が終わり、車で迎えに来てくれた母のもとへ行きました。受験後最初に母に言った言葉は忘れられません。

「ママ、お弁当よろしくお願いします。」

なぜお弁当なのか?受験した公立M中等教育学校には給食があり、一方、近所の公立中学校には給食がありませんでした。(一応、デリバリー式の給食はありましたが、それは本当に美味しくないと聞いていたので、お弁当と考えていました。)

 そうです。僕は完全に不合格を認めたことを暗に表現したのでした。本当に自分の存在意義すら感じられないほど病んでいました。しかし、相変わらず母は楽観的ですから、お弁当発言に対してウケていたと思います。

 

 

 

合格発表後の災難、、

 

 合格発表日。

 僕は普通に小学校に行ったので、両親が結果を見に行きました。だから結果を知ったのは帰宅後でした。少しばかりの期待をしながら、玄関に駆け込みました。何かを言いたそうだけど、なんとも言えない顔をした父が僕に告げました。

「よく掲示板を探したけれど、受験番号は見当たらなかった。」

 僕はすぐに2階の自分の部屋に行き、ベッドで布団にくるまって泣きました。数時間。予想は出来ていた結果だったけれど、今まで頑張ってきた受験勉強を思うと、悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。あとから聞いた話ですが、父は隅から隅まで僕の受験番号を探したようです。あんなに頑張った息子が落ちるわけが無いと思ったからでしょうか。泣きじゃくる僕に、両親は焼肉屋に行こうと提案してくれました。今までで1番後ろめたく感じながら食べた焼肉でした。

 それからがまた災難でした。色んな人から結果を聞かれるわけです。それだけ期待もされていたから当然でしょう。僕が第三者でも結果は気になります。学校の友達に、サッカークラブのチームメイトに、親戚に…聞かれたわけです。12歳の僕には辛すぎました。1番辛かったというか、腹が立ったというか、学校での出来事があります。当時のクラスメイトであり、サッカークラブのチームメイトでもある友達に、

「俺が受けたら受かってたな。」

と言われたことです。受験、ましてや受験勉強もしてないのによくそんなことが言えるなと、悔しかったし腹が立ちました。まあ寛容でなかった自分にも問題はありますが。そんな訳で、当時の僕は「お豆腐メンタル」でした。切り替えができませんでしたから。

 

 

 

おわりに 

 

 以上が、僕にとっ「人生最大のスランプ」でした。

 

 今回の記事、いかがでしたか?

 自分なりによく思い出してまとめてみました。ここまで長い文章を読んでくれた方々、ありがとうございます。今思い返せば、早く切り替えろって話ですが、この後に人生の転機が訪れます。次回のテーマは「人生最大の努力」です!ここから僕の快進撃が始まります。お楽しみに!

 

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